長正館は、笹森順造十六代宗家から、昭和47年(1972年)3月に認可を受け、現在、小野派一刀流宗家道場禮楽堂大阪支部道場として活動しています |
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剣術が剣道的な姿勢に変化した経緯 |
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現在の剣道の原型は正徳年間(1711〜1715年)に遡る。
直心影流の長沼四郎左衛門国郷が防具を考案し竹刀で打突し合う「打込み稽古法」を普及させたことに始まったとされている。そのあと宝暦年間(1751〜1764年)に、一刀流の中西忠蔵子武(2代)が現在の防具と竹刀に近い道具を用いた打込み稽古法を採用すると、短期間で多くの剣術各流派に波及したとされる。そして寛政年間(1789〜1801年)には、流派の壁を越えての防具と竹刀での他流試合が盛んになった。
津軽家においても津軽文書の剣術遣方覚書が記されたのは1600年代終盤とされている。その約100年後の1700年代終盤に津軽藩の剣術師範家である山鹿家によって竹刀稽古が導入され、古来から現代の小野派一刀流へと変貌した経緯が明治大学の長尾教授による論文発表(近世後期における剣術修行論に関する一考察−山鹿高厚「たより草」の分析を中心に−)にて明らかにされている。(PDF資料)
ここからは個人的な持論になる。
現在の剣道の有効打突部位は、面、小手、突き垂、胴の4部位だが、元々の剣術としての斬突部位は決まっていない。生き死にがかかっている以上、相手の動きを封じ、相手の息を止めてしまえば良いのである。頭、首筋、顔面、咽喉、肩、腕全部、拳、胸、水月、脇腹、足・・、どこでも良いわけだ。そしてどこをどう攻撃するか、かつ勝敗の基準は流派によって異なるのである。
となると、防具を着けての他流試合となると不具合が生じる。どこでも好きに打突しても良いと言うわけにはいかない。「そちらは脇を打ったが我が流派ではそのような技は認めない決まりだ」となる。中には打突の無い精神的な勝ちを求める流派もあるだろう。他流同士の試合で審判も別の流派だっとしたら、判定の基準も異なる。全員が納得のいく勝負など成立しないのだ。結局は折り合いをつけて何かしらのルールを作らなければ他流試合は成り立たないことになる。
おそらく最初は混乱しただろう。そして最終的に、面部、小手部、咽喉部、左右の胴の4部位を打突部とする・・という事に落ち着いていったに違いない。そして必然的に4つの打突部位でも最も遠く、当て難い面部への技が最も高度で高等なものと考えられるようになったのでは無いだろうか?
そしてなお、ルールを作った時点で防具稽古は競技化したと言えるのだ。「剣道はスポーツだ」とよく言われるが、剣道がスポーツ的な要素の強い武道であることは確かなのである。
一刀流も古来相伝の構えは半身である。防具を導入した中西家も忠兵衛子正(4代)まで半身であったことは剣道秘書に記されている。
右半身で左肩を引き、足を開いて左足は斜め横を向く。左拳は半身になった身体の中心で、刀身全体で身を隠すようなカタチになる。剣先は相手の左目に斜めに付ける。やや高めの構えである。これは刀法として守りに強い実戦的な構えである。
小野家一刀流兵法全書(一刀正伝無刀流開祖山岡鉄舟先生遺存剣法書)より
ところが、この半身の構えは昨今の軍隊格闘術にも見られるように、殺傷術としては適していても、競技として相手の面を狙うには適していない。この構えでは相手の面へ素早く切りかかれないのだ。板間の道場での競技で真っ直ぐ素早く面に打ち込むには、どうしても左腰を入れて正対し身を立て、左足を使って跳躍したほうが有利になる。現代剣道で上の写真のような構えをしたら間違いなく「何やってんだ?」と嘲笑を浴びるだろう。
これは小野派一刀流に限らず、どの流派であっても同じである。防具稽古を導入した時点から、半身から正対に必然的に変化してきたのだ。防具竹刀で他流試合で勝つためには、古来の構えを捨てて正対しかつ身を立てて構えたほうが有利である。そしてそれが主流となっていったのだ。
当時は剣術稽古も商売である。幕末の剣術の流派は全国で200近くあり、道場は500以上もあったと言われる。剣術はビジネスでもあったのだ。地味な形稽古だけの道場は人気が無く寂れ、防具稽古を導入した道場も他流試合に弱ければ弟子も集まらない。つまり時代の流れで正対した構えを表芸にせざるを得なかったのだ。そして必然的に流派ごとの特徴は消滅していったのである。
防具稽古を一切導入せず、古流剣術だけを純粋に(おそらく細々と)修行してきた一部の流派は別としても、少しでも防具稽古を導入した流派は競技向けの正対した構えに成らざるを得なくなる。結局はかなりの葛藤はあったにせよ、防具稽古によって、剣術流派に関係なく古流剣術としての純粋さが徐々に失われてしまったのでは無いかと考えられるのだ。半身の構えを捨てると技も変わらざるを得ない。競技性の追求が形稽古にも影響を与えたと言えるのだ。
どのように変化してきたかは不明である。スイッチを切り替えるように防具稽古では正対し、形稽古では半身になっていたのかも知れない。そして形稽古も正対姿勢の影響を少なからず受けてきたのだろう。明治30年の一刀流の稽古動画(動画資料)では現在の一刀流よりもやや半身が強いような気がする。そのせいか切落しも現在のものとは異なるように見える。戦前の剣道も今より半身が強かった。良い悪いの話では無い。戦国時代の小野次郎衛門忠明が江戸期の一刀流を見たら「もっと身を落とせ」と言うかも知れない。時代の流れで必然的に変化してきたわけだ。
全日本剣道連盟の日本剣道形は剣の理法、つまり日本刀の理合と扱い方を統一制定したものだが、原型は大日本帝国剣道形として大正元年(1912年)に制定されたものである。これは明治後期に大日本武徳会が剣術の普及発展を図るため、流派を超越した共通の形を作ろうと、神道無念流、心形刀流、北辰一刀流、小野派一刀流、神道無念流、田宮流、新陰流、山口流、直心影流、鞍馬流、無外流、貫心流、水府流、津田一伝流の委員が各流の意見を統一し、最終的に大太刀7本、小太刀3本が制定されたものである。各流派がそれぞれ自分の流派の技を入れようと、中には死を覚悟するほどの激しい議論をしたそうである。剣術各流派の代表が激論の末、統一された形がほぼ正対した姿勢であることにも留意したい。
※現在の日本剣道形は、より正対姿勢が強く、下段の位置もかなり低い。
2020年11月16日「日本剣道形の下段についての私的考察」(参考ブログ)
さて競技性の話になる。剣術は防具稽古の導入で競技性が強まった。それに連れて構えも変化した。しかし剣術家が求めるものは防具を着用しての勝ち負けでは無い。刀を使った実戦刀法を忘れてはならない。(完璧な防具を作って日本刀で打ち合えという話では無い)また剣術から派生した剣道も武道である以上、実は「竹刀打ち」の勝ち負けだけにこだわるべきでは無いのだ。
丸亀藩に伝わる真道一念流宗家で剣道範士だった吉田誠宏先生が、長井長正先生に「剣道は当てっこでは無いぞ」と厳しく言われたのも、剣道を競技として稽古するな・・という戒めであったのかも知れない。剣術で技を磨き、剣道で駆け引きの理合を学ぶのが本筋かも知れない。当然、心の鍛錬が無くては両方ともモノにならない。
文責:粕井誠(長正館館長)
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