長正館は、笹森順造十六代宗家から、昭和47年(1972年)3月に認可を受け、現在、小野派一刀流宗家道場禮楽堂大阪支部道場として活動しています |
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五点36本から大太刀50本へ |
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1)伊藤一刀斎の旧名は外他(とだ)一刀斎
一刀斎について極めて数少ない一次史料から、工学院大学の数馬教授の論文発表により、外他一刀斎が伊藤一刀斎に改名したこと、伊藤一刀斎から南総里見家の御子神助四郎へ伝授されたこと、「五点、卍」の考案は外他一刀斎の時代に遡ることが明かされた。ただし、御子神助四郎と御子神典膳(=小野次郎右衛門忠明・初代)が同一人物かどうかはわからない。なお、忠明(初代)の孫となる忠於(3代)が、次郎右衛門を襲名する前の名が「助四郎」である。
2)伊藤一刀斎の五点がベース
国際武道大の立木教授たちによる複数回に渡る一連の論文発表により、一刀斎から小野家に伝わった後の刀法の変遷と伝承形態が明らかにされている。一刀流の技法について、小野家の間では伊藤一刀斎より伝授された五点をベースに、代々さまざま工夫して継承されていた。春風館文庫の小野家文書(代々の次郎右衛門による覚書=割目録)に記される五点とは、一刀斎〜忠明(初代)により編まれた「真之五点」、忠明(初代)により編まれたとされる「草之五点」、忠常(2代)により編まれた「新真之五点(津軽文書に「新之字は忠常の撰」との注意書きあり)」である。
3)真之五点36本
真之五点は妙剣(9本)、絶妙剣(10本)、真剣(7本)、金翅鳥王剣(3本)、独妙剣(7本)の計36本と記されている。この真之五点36本を代々の小野次郎右衛門が独自に組み直し(5組の各本数を各々増減させ)ながら、次代の次郎右衛門に継承してきたのである。
真之五点の例を挙げると、妙剣は「一ツ勝2本目であり、乗身の5本目と知るべし」とあり、金翅鳥王剣は「巻返1本目であり、乗身の5本目と知るべし」と記されている。草之五点の一例を挙げると、独妙剣は「打太刀上段、遣手清眼にして勝行也」と記されている。このように真之五点と草之五点が編まれた一刀流の草創期は技名と技の仕様が紐付かず、1対1になっていなかったことがわかる。
そして、忠常(2代)は新真之五点(5本)を編む際、技名と技の仕様を「1対1に紐付け」たことが読み取れる。また、真之五点(一刀斎〜忠明)、草之五点(忠明)、新真之五点(忠常)で「折り敷く」動作は確認できない。
4)大太刀50本の成立
小野家文書で大太刀の名が初めて確認できるのは忠方(5代目)の項であり、大太刀50本の技名のみが記され、技の仕様は記されておらず、五点が大太刀に整理集約された経緯も記されていない。また忠喜(6代目)の項では大太刀の成り立ちについて、忠明(初代)にて25本、忠常(2代)にて増やされ50本になったとあるが、忠明(初代)までの最初の25本が大太刀50本のどれに相当するのかは記されていない。なお、忠方(5代)は大太刀の折身の組を五点の技名(妙剣〜独妙剣)で記しており、その各々の下に折身、摺上、脇構之打落と併記している。このことから、忠方(5代)の頃は折身の組が数ある五点の1つとして稽古されていたことが読み取れる。
小野家文書の真之五点(36本)では大太刀への引用が、明記された技と明記されてない技の両方が見受けられる。一方、現在、今の時点で、唯一、大太刀の技の仕様が確認できる最古の文献は津軽文書(つがるもんじょ)の剣術遣方覚書なのである。
津軽文書の剣術遣方覚書は津軽藩主の信政(3代・忠於の直門)と信寿(4代・忠一の直門)の作とされていることから、大太刀50本の成立は小野次郎右衛門忠於(3代目)の頃、あるいはそれ以前(=2代・忠常の頃)と推定される。よって大太刀50本の成立時期については、小野家文書に記された年代と津軽文書から推定される年代の時系列がほぼ一致していることがわかるのである。つまり剣術遣方覚書が作成された1600年代後期の頃には、既に大太刀は存在していたという事になる。
この剣術遣方覚書では大太刀は「技名と技の仕様が紐付いて1対1」になっていることが顕著な特徴である。小野家内部では五点式で技を継承しながら、師範家には、大太刀50本として教習させていたという事になる。
5)「十二点」、「九太刀」、「払捨刀」との関係
ここで小野家文書での大太刀50本と「十二点」「九太刀」「払捨刀」との関係について触れておく。十二点、九太刀、払捨刀、いずれも忠常(2代)から助四郎(3代・忠於)への目録状に確認できるので、忠常(2代)の頃、あるいはそれ以前つまり忠明(初代)から一刀斎の頃の成立と推定できる。
十二点は技名が無く、技のポイントのみ簡潔に記され、打方と仕方の仕様は記されていないが、1本目と2本目は「巻返1本目と2本目」、6本目は「長短」、12本目は「発」と各々記され、大太刀と紐づけられている。
九太刀は技名と技の仕様が記されると共に、「戦場の致やう也、具足勝負也(=甲冑剣法)」とあり、8本目の右点は「地生の二つ目と可知也」、即ち大太刀の地生之相下段であることが記されている。
小野家の伝える払捨刀は1本である。払捨刀の太刀筋が八相であり、勝口が四つ(=四ツ切)であると記されている。払捨刀と大太刀の紐づけは確認できないが、「新真之五点_妙剣」の項に「払捨刀也」と記されており、忠常(2代)が編んだ新真之五点の妙剣に引用されていることが読み取れる。また払捨刀は「弟子に教えること勿れ」と記され、流技の中でも別格(=秘伝)の扱いであったことがわかる。
小野家文書には大太刀、五点、九太刀、十二点に含まれない太刀が幾つか見られる。その中の1つが龍ノ尾返し(たつのおがえし)である。草之五点の絶妙剣の項に「龍ノ尾返しと似たるもの也・・・(中略)・・・龍ノ尾返しは左の足の裏に右の足を入れ回す也」と記され、龍ノ尾返しは草之五点_絶妙剣の変形技であることが読み取れる。
いずれにしろ、小野家の「五点」「十二点」「九太刀」は、大太刀50本の中に概ね含まれる(=整理集約された)と結論付けてよい。
【参考資料】
@小野家一刀流兵法全書(一刀正伝無刀流開祖山岡鉄舟先生遺存剣法書)、全巻
※小野家文書(代々の次郎右衛門による割目録)を掲載(1987年一般公開)
A「武道文化の展開−流派剣術から撃剣、近代剣道へ」、魚住孝至/立木幸敏
※国際武道大学による複数回に渡る論文発表(一刀流関連の全件)
※津軽文書(剣術組遣形覚書)と小野家文書
(代々の次郎右衛門による割目録)を掲載
B外他流の関東伝播に関する一研究〜御子神氏を中心として
江戸時代関東農村における剣術流派の存在形態に関する基礎的研究、数馬広二
C近世後期における剣術修行論に関する一考察
「たより草」の分析を中心に、明治大学、長尾進
D一刀流兵法組数目録遣方弁書口伝(中西忠兵衛子正)、剣道秘書に掲載
E一刀流兵法目録(忠也派)、鵜殿長快(光田福一・編)
F北辰一刀流兵法、千葉周作遺稿(千葉栄一郎・編)
G北辰一刀流祖遣様聞書、日本武道大系第2巻、兵法一刀流に掲載
H北辰一刀流機運之書、一刀流関係史料(筑波大学)に掲載
I北辰一刀流剣法、内藤伊三郎
J一刀正伝無刀流の形、史談無刀流(浅野サタ子)に掲載
K一刀正伝無刀流組太刀仕法、剣法無刀流(塚本常雄)に掲載
(以下、私見)
上に述べてきたように、伊藤一刀斎より小野忠明(初代)に伝授されたのは「五点」である。この最初の「五点」がどのようなものであったかは不明である。当然ながら今の高上極意五点とは別物である。勘違いしている者も多いのであえて書いておく。高上極意五点は不明瞭な五点を後世にわかりやすく具現化し5本にまとめ上げた形である。
そして伊藤一刀斎の「五点」から、代々工夫を重ね36本に仕上がった。さらに、この36本を、代々の小野次郎右衛門が、独自に組み直し(5組の各本数を各々増減させ)ながら、次代の次郎右衛門に代々継承してきたのである。
思うに、小野家代々の「五点」式での教習は、意思疎通の容易な親子の間や、極めて近い親戚間なら可能だったろうと推測される。しかし門弟も増え小野家以外の者を相手への教習となると、古来よりの「五点」式では困難になったのでは無いだろうか?
そして時代を経て、五点36本は大太刀50本に集約された。
ここで初めて多数の門弟への教習が可能になったと推測されるのである。
津軽文書が記されたのは1600年代末期。その約100年後の1700年代末期に、藩の師範家である山鹿家によって、津軽藩では現代の小野派一刀流の大太刀50本の基盤が出来上がったとされる。(明治大学による「たより草」の研究論文に、津軽藩の一刀流の変貌の経緯が記されている)
その結果、一刀流は大太刀50本において、現代の小野派一刀流、分派である中西家の一刀流、さらにその分派である北辰一刀流は、共に、基本的にその理合や技法はほぼ同じであるのも、伝承の流れからみて頷けるものがある。
以前より、長正館では、吉田誠宏先生、長井長正先生、井上勝由先生の遺志を継ぎ、自由な立ち位置で古伝の一刀流の研究と復刻に取り組んでいる。竹刀稽古導入に伴い、古(いにしえ)の技法から一刀流が変化してきた事情については別項(「半身から正対へ」)に書き記す。
文責:粕井誠(長正館館長)
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