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吉田誠宏(よしだせいこう)先生について
1)どう出版「なぎなた範士 澤田花江 あくなき向上心」より
澤田氏の父・吉田誠宏
明治23年、香川県に生まれる。 丸亀松平藩に代々伝わる天真正伝神道一念流師範である父・仙次に、幼少より厳しく剣道をしこまれる。のち大日本武徳会の武道講習生として内藤高治範士より指導を受ける。同会武術専門学校の学生だっ
た持田盛二、斎村五郎らと地稽古に励む。全国の道場をまわる武者修行など、実践による修練を続けた。生涯、段位にこだわることなく、心と気を重んじる本来の剣道を行ない、90歳まで道場で指導にあたった。
(粕井館長注釈:天真正伝神道一念流とあるが、高松松平藩の「真道一念流」の誤記では無いかと思われる)
2)粕井館長の(長井長正先生の資料を元にした)ブログより
吉田誠宏、香川県出身 明治22年(1889年)〜昭和54年(1979年)
大日本武徳会武道専門学校講習科卒業。昭和20年〜27年、連合国軍(GHQ)によって剣道が禁止されたが細々と稽古は続けられた。古賀恒音、宮崎茂三郎、堀正平と交流があった。大阪税関師範。西川源内、長井長正など、多くの剣士を育てたが段位や称号には無頓着だった。長井長正先生は昭和35年から吉田誠宏先生に師事する。
東大阪市の近鉄奈良線の石切駅の近く、孔舎衛坂駅跡の西寄りに日下新池(天女が池)という池があり、そこには大正時代に日下遊園地という遊園地が存在した。日下遊園地は、大正15年の「あやめ池遊園地」、昭和4年の「生駒山上遊園地」の開園でさびれてしまった。昭和12年に日下遊園地の料理旅館「永楽館」を買い取って改装し「孔舎衙健康道場」という結核療養所を設立したのが吉田誠宏先生である。吉田誠宏先生は香川県出身。警察官だったという話もあるが警察官ではなく、実際は警察(現大阪府警)で剣道の指導をされていた。そういう意味では職業剣道家でありプロである。正義感が強く熱血漢でもあり、私財を投じて「孔舎衙健康道場」を創設した。「孔舎衙健康道場」は、太宰治の小説「パンドラの匣」のモデルにもなった。しかし戦中の物資不足で昭和17年秋「孔舎衙健康道場」は閉鎖された。この孔舎衙健康道場から1キロほど北の、同じ生駒山山麓である善根寺に吉田誠宏先生のご自宅があった。(直線距離は1キロだが、実際に歩くと2キロのアップダウンの道である)自宅に隣接して「聖和道場」という剣道場があり別名「心身鍛錬道場」とも言った。吉田誠宏先生の娘さん(澤田花江先生の妹と思われる)が平成元年頃まで書道教室を開いていた。
3)廣畑研二著「水平の行者/栗須七郎」
第二節 細田剣堂と撃剣修行(133-134頁より抜粋)
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生駒山麓に道場を構え悠々自適の日々を送っている吉田誠宏が、若き日、堀正平とともに道具一式を担いで武者修行の旅に出たのは、明治四十年のことだった。北陸をまわったのち宇都宮の矢田貝弥三郎をたずね、水戸・東武館に立ち寄ったあと上京して有信館を訪れている。
この思い出話をわたしが聞いたのは、亡くなる二年前である。生駒山麓の氏の自宅を取材でたずねたときで、それが数回目の訪問だった。(中略)氏は水平運動に共鳴してみずからも差別と闘ったり、この地に施療院をかまえて独自の施術で多くの重症結核患者を救ったり、剣道の精神を実社会で生かそうとつとめた人物だった。段位称号に目の色を変えている昨今の剣道家たちとは生き方を異にした。(231頁)堂本昭彦「中山博道有信館」
吉田誠宏は、剣術家として剣道界では知られた人物である。しかし、水平運動との関わりはまったく知られていない。吉田は、1920年代前半期に、大阪芦原警察署の剣道教師をしていたこともあるので、水平運動の情報を早くから知り得る立場にあったといえる。また、吉田が武者修行のために「有信館」を訪れた時期は、栗須が「有信館」に通った時期とも重なる。さらに、後年「水平道舎」の書生となった鄭承博は、生駒山麓の仙人のような剣術家について記憶していた。栗須がこの仙人を訪問するときに、生駒山に同行したことがあるというのである。ただし、現時点ではこれ以上のことは分かっていない。生駒山麓の施療院とはいかなるものであったのか、吉田の水平運動との関わりはいかなるものであったのか、生駒の仙人は吉田誠宏であったのか、光を当てるべき人物とその思想と行動は、未だ発掘されていないのではないだろうか。
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右は長井長正先生 (聖和道場の吉田誠宏先生のご自宅にて)
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澤田花江(さわだはなえ)
大正5年(1916)生まれ。香川県出身。なぎなた範士。生家が剣道家の家柄であったため、幼少より剣道を学ぶ。昭和9年、大日本武徳会薙刀術教員養成所に入り、12年同研究科修了。京都や兵庫、大阪の高等女学校で嘱託としてなぎなたの指導にあたる。戦後は、なぎなたの復興に尽力し、昭和30年、全日本なぎなた連盟の結成にも大きな貢献を果たす。
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「あくなき向上心」45頁より、昭和48年、金毘羅奉納大会の帰路
中央が吉田誠宏、右が澤田花江 |
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