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長正館は、笹森順造十六代宗家から、昭和47年(1972年)3月に認可を受け、現在、小野派一刀流宗家道場禮楽堂大阪支部道場として活動しています
 
 
 
聖和道場の吉田誠宏先生

吉田誠宏(よしだせいこう)先生について

1)どう出版「なぎなた範士 澤田花江 あくなき向上心」より
澤田氏の父・吉田誠宏
明治23年、香川県に生まれる。 丸亀松平藩に代々伝わる天真正伝神道一念流師範である父・仙次に、幼少より厳しく剣道をしこまれる。のち大日本武徳会の武道講習生として内藤高治範士より指導を受ける。同会武術専門学校の学生だっ た持田盛二、斎村五郎らと地稽古に励む。全国の道場をまわる武者修行など、実践による修練を続けた。生涯、段位にこだわることなく、心と気を重んじる本来の剣道を行ない、90歳まで道場で指導にあたった。

※粕井館長注釈:
上の説明文では天真正伝神道一念流とあるが、高松松平藩の「真道一念流」に始まり、のちに「天神真揚流柔術」を加えた「天真正伝真道一念流」の誤記と思われる。「神道」ではなく「真道」である。下の図は昭和53年発行の武芸流派大辞典の418頁の記載である。剣としては香取神道流の流れを組む「真道一念流」と断定して良いだろう。また師範家ではなく宗家である。吉田誠宏先生は六代目であった。残念ながら後継は居なかったようだ。



2)粕井館長の(長井長正先生の資料を元にした)ブログより
吉田誠宏、香川県出身 明治22年(1889年)〜昭和54年(1979年)
大日本武徳会武道専門学校講習科卒業。昭和20年〜27年、連合国軍(GHQ)によって剣道が禁止されたが細々と稽古は続けられた。古賀恒音、宮崎茂三郎、堀正平と交流があった。大阪税関師範。西川源内、長井長正など、多くの剣士を育てたが段位や称号には無頓着だった。長井長正先生は昭和35年から吉田誠宏先生に師事する。

東大阪市の近鉄奈良線の石切駅の近く、孔舎衛坂駅跡の西寄りに日下新池(天女が池)という池があり、そこには大正時代に日下遊園地という遊園地が存在した。日下遊園地は、大正15年の「あやめ池遊園地」、昭和4年の「生駒山上遊園地」の開園でさびれてしまった。昭和12年に日下遊園地の料理旅館「永楽館」を買い取って改装し「孔舎衙健康道場」という結核療養所を設立したのが吉田誠宏先生である。吉田誠宏先生は香川県出身。警察官だったという話もあるが警察官ではなく、実際は警察(現大阪府警)で剣道の指導をされていた。そういう意味では職業剣道家でありプロである。正義感が強く熱血漢でもあり、私財を投じて「孔舎衙健康道場」を創設した。「孔舎衙健康道場」は、太宰治の小説「パンドラの匣」のモデルにもなった。しかし戦中の物資不足で昭和17年秋「孔舎衙健康道場」は閉鎖された。この孔舎衙健康道場から1キロほど北の、同じ生駒山山麓である善根寺に吉田誠宏先生のご自宅があった。(直線距離は1キロだが、実際に歩くと2キロのアップダウンの道である)自宅に隣接して「聖和道場」という剣道場があり別名「心身鍛錬道場」とも言った。吉田誠宏先生の娘さん(澤田花江先生の妹と思われる)が平成元年頃まで書道教室を開いていた。

3)廣畑研二著「水平の行者/栗須七郎」
第二節 細田剣堂と撃剣修行(133-134頁より抜粋)
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生駒山麓に道場を構え悠々自適の日々を送っている吉田誠宏が、若き日、堀正平とともに道具一式を担いで武者修行の旅に出たのは、明治四十年のことだった。北陸をまわったのち宇都宮の矢田貝弥三郎をたずね、水戸・東武館に立ち寄ったあと上京して有信館を訪れている。

この思い出話をわたしが聞いたのは、亡くなる二年前である。生駒山麓の氏の自宅を取材でたずねたときで、それが数回目の訪問だった。(中略)氏は水平運動に共鳴してみずからも差別と闘ったり、この地に施療院をかまえて独自の施術で多くの重症結核患者を救ったり、剣道の精神を実社会で生かそうとつとめた人物だった。段位称号に目の色を変えている昨今の剣道家たちとは生き方を異にした。(231頁)堂本昭彦「中山博道有信館」

吉田誠宏は、剣術家として剣道界では知られた人物である。しかし、水平運動との関わりはまったく知られていない。吉田は、1920年代前半期に、大阪芦原警察署の剣道教師をしていたこともあるので、水平運動の情報を早くから知り得る立場にあったといえる。また、吉田が武者修行のために「有信館」を訪れた時期は、栗須が「有信館」に通った時期とも重なる。さらに、後年「水平道舎」の書生となった鄭承博は、生駒山麓の仙人のような剣術家について記憶していた。栗須がこの仙人を訪問するときに、生駒山に同行したことがあるというのである。ただし、現時点ではこれ以上のことは分かっていない。生駒山麓の施療院とはいかなるものであったのか、吉田の水平運動との関わりはいかなるものであったのか、生駒の仙人は吉田誠宏であったのか、光を当てるべき人物とその思想と行動は、未だ発掘されていないのではないだろうか。
 
自宅で語る吉田誠宏先生 
 吉田誠宏先生と長井長正先生
  右は長井長正先生 (聖和道場の吉田誠宏先生のご自宅にて) 
   
 澤田花江範士

澤田花江(さわだはなえ)
大正5年(1916)生まれ。香川県出身。なぎなた範士。生家が剣道家の家柄であったため、幼少より剣道を学ぶ。昭和9年、大日本武徳会薙刀術教員養成所に入り、12年同研究科修了。京都や兵庫、大阪の高等女学校で嘱託としてなぎなたの指導にあたる。戦後は、なぎなたの復興に尽力し、昭和30年、全日本なぎなた連盟の結成にも大きな貢献を果たす。
 吉田誠宏先生と澤田花江先生
「あくなき向上心」45頁より、昭和48年、金毘羅奉納大会の帰路
中央が吉田誠宏、右が澤田花江
 
 
   
 


 
 
剣道日本 2006年2月号、
特集 「範士が語る/西川源内」より

(前略)
 いろんな先生から稽古をいただきました。誠宏先生ですか? もちろんです。当時、私は、当たる盛りというか、とにかく打てばぽかぽか当たるんです。ところが稽古が終わって挨拶にいくと「西川、あんまり強くなるなよ」と先生はおっしゃる。毎回、そうです。強くなるなとは、いったいどういうことなんだ……。そのころの私は、機会とみたらすかさず打たなければいけないと思っていました。ですから誠宏先生のおっしゃる深い意味は解るはずもありません。しかし何度となく言われているうち、さすがに少し考えるようになりました。
 先生は、相手の心が動かないところでいくら打っても、それは当てようとするだけの無理な打ちでしかない、相手の心を動かし、そこを打つ、それが理合にかなった剣道の打ちである、理合を考えて稽古をしなさい、と言っておられたのです。 理合にかなった稽古というのは心の問題が大きなウェイトを占めています。その心を先生は「強くなるなよ」という言葉で説かれていたのです。
 理解するまで多くの時間を要しました。一、二年? いや、もっとです。

(中略)
 出張から帰ってくると、日曜日にはまた誠宏先生のところで稽古です。理合の重要さが少し解ってきたころでしょうか、先生に稽古をお願いすると、今度はさっぱり打てなくなりました。いくら攻めても先生の心を動かすことができず、したがって打つべき機会が見出せないのです。それどころか、こちらの心の動きが先生の心にすべて映っているらしく簡単に打たれてしまう。結局、掛かり稽古から、打ち込み、切り返しの稽古になっていました(笑)。年齢ですか?そのころ私は、まだ40歳にはなっていなかったと思います。ええ、ですから私が心の問題を真剣に考えるようになったのはずっと早いころからです。

(中略)
 剣道は不動心≠フ本当のところが解ってから変わりました。不動心≠ニはとらわれない心、 すなわち自由な心です。たとえば、花を見て美しいと感動する。これは自由な心の働きです。しかし、それを誰かに贈って歓心を買おうとしたとし ます。この時点で心は動いています。歓心を買うことに心がとらわれ、花を美しいと見る自由な心を失っているのです。剣道でも同じことが言えます。打ちたい打ちたいは心がとらわれた状態であり、そこに驚懼疑惑が生まれます。この四病は大きな心のすきです。ところが、相手と対したとき、 打ちたいという自己を捨て、自由なとらわれない心でじりじり攻めていけば、相手はなんとかしようとして心がとらわれてしまいます。心がとらわれると心は動きます。その動くところを逃さず打つ。これは、心で勝ち、心で打った真正の勝ちです。また相手が退がっても同じことで、スッとすかさず乗って追っていきます。こちらが追い込もうとするのではなく、相手は退がらざるを得ない心理状態にあるのです。もちろん結果は同じことになります。

 吉田誠宏先生が言わんとした剣道はこれだったと、そのころやっと解りました。ずいぶん時間が掛かったものです(笑)。

(後略)
 
 
   
 
 少年一刀流の形の表紙 少年一刀流の形についての説明
 
少年一刀流の形について
恩師吉田誠宏先生が本筋の剣道を体得するためには、先祖様が命がけで作られた古流の形を研究錬磨し、之を体得して見なければ到底剣道は判る筈がない。 古流の形を知らずして剣道を語る勿れ、と言っても敢えて過言ではあるまい。今の剣道を本当の剣道と思っているなら、それは大変な間違いであると申された。筆者は偶々古流の形の中でも一番現在の剣道に近い小野派一刀流の組太刀を今は亡き笹森順造先生、小野十生先生にご指導を受け、今日に至っているが、還暦を過ぎ、始めてその必要性を痛感し、自分の道場で有段者の門人に対し、稽古前には必ず時間をかけて一刀流をやらし ており、その効果誠に見るべきものあり、之が為一番大切な少年指導に当り初歩より木刀に馴染ませ 一刀流の形に導入すべく一刀流の本命である切落しの精神、技を中心にして少年に覚え易いようにし少年一刀流の形を制定した。この形を少年の基本、応用動作と平行して指導することによって初めて立派な剣道の基礎が出来上るものと確信し、自分の道場で一年間実施した結果大いに成果が上って来たので、之を明文化し、広く心ある先生方に体得指導して頂き少年をして知らず本来の剣道に導入するよう心掛けて頂くべく、ひたすら念願し、制定したものである。

あとがき
本書の刊行については大阪府剣道道場連盟の各道場主の先生方に筆者の門人である少年達に形をやらせてお見せ したところ、是非とも自分の道場でも少年にやらせたいと懇望を受け、尚、細部にわたった形の手順とその精神を一冊の本にまとめるようにと、意のあるお励ましを頂き、未熟乍ら道のためと思い、感謝報恩の念をもって書き上げた次第であります。本書の内容は故笹森順造先生の著書「一刀流極意」を忠実に守り、その範囲内に於いて少年に最も理解しやすいように注釈を加え、恩師の故小野十生先生の教えを充分意に体し、筆者の考えをまとめて書き上げたものであります。願わくば諒とされよ。最後にこの本を以って流祖を始め代々の師、並びに恩師の故笹森順造先生、故小野十生先生の御霊に謹んで捧げる次第であります。

(昭和51年10月21日 長正館館長 長井長正)

 
   
 
 
吉田誠宏先生が長井長正先生に贈られた木刀
全長112cm、幅10cm、重さ2235g (参考のため一刀流の木刀と並べて撮影)

吉田誠宏先生が76才の時に、全国武者修行をされ、その記念にと、ご自宅(聖和道場)裏山の椿の古木から数本製作され、そのうち一振りを長井長正先生に贈られた。(下の画像はクリックで大きくなります)
 吉田誠宏先生の木刀  吉田誠宏先生の木刀  吉田誠宏先生の木刀
 吉田誠宏先生の木刀  吉田誠宏先生の木刀  吉田誠宏先生の木刀



 
粕井館長あとがき

澤田花江先生が吉田誠宏先生の娘さんと知ったのでさっそく上の著書「あくなき向上心」を手に入れ読んでみたが、さすがに吉田誠宏先生の血を引いておられ、武道に対する考えは誠に素晴らしく感銘を受けた次第である。何よりお顔がそっくりである。女性だが武士の面魂である。

西川源内の吉田誠宏先生の思い出は、剣道をスポーツとして捉えるか、武道として捉えるかの大切な分岐点であると思う。「打ちたい打たれたくない」という浅い気持ちを超越した武道の肝っ玉がいかに大切なものであるか、である。長井長正範士も生前、稽古中に、「剣道はココだ」と言って、自分の腹をポンと叩かれていたらしい。

少年一刀流の形5本は、打方(打太刀)が陰の構えでは無く、すべて正眼に構えるなど、剣道稽古にそのまま役立つ一刀流の形として長井長正範士が考案された。長正館に始まり、大阪府剣道道場連盟を中心に大阪の少年剣士にある程度は認識され稽古されたようである。やや古流に傾くが、今の「木刀による剣道基本技稽古法」と発想に近いものがあるのかも知れない。さらに年少より古流に親しむ必要性も考えておられたのだろう。しかし、おそらく、剣道界において、長井長正範士の勇み足と見られたのか急に廃れてしまい、井上勝由二代目館長の代にはまったく稽古されなくなっていた。

しかしながら・・・

「古流の形をやらねば、お前には本物の剣道が判ろうはずがない」と、吉田誠宏先生が長井長正範士に言わていなければ、長正館の一刀流は現在存在していないのである。長正館では、吉田誠宏先生、長井長正範士の遺志を継ぎ、現行の一刀流の稽古と並行して、古流古伝の形も研究追求し、研鑚しているのである。
 
 
 

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