長正館は、笹森順造十六代宗家から、昭和47年(1972年)3月に認可を受け、現在、小野派一刀流宗家道場禮楽堂大阪支部道場として活動しています |
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秋山英武(あきやまひでたけ)
剣道範士八段
元・和歌山県剣道連盟理事長
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剣道日本1999年4月号(44-45頁)
50歳前に教えられた攻めの基本となる構え。
それから剣道が変わった。
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私が最年長ということですが、出場する ことについては、何も抵抗はなかったです。喜んで行きました。対戦しそうな先生方の京都大会でのビデオを毎晩毎晩見て研究しましたよ。ええ、毎年京都のビデオはとっているので、先生方の七段時分からのビデオが揃っているんです。
コテ技がよかった?それはただコテがそこにあったから打った、というだけのことなんです。ただ、メンよりもコテのほうが自分からみて手前にあるし、そして、コテは相手が何らかの動作するたびに必ず動くわけです。もちろん相手が出ればメンを打つ機会になりますが、コテの方が打つ機会は多いんです。
最後、田場先生にはいいとこを打たれました。 田場先生が3位になって、あの大会に地元沖縄としても花を添えることができ、よかったですよ。
僕はもともと試合には弱かったんです。
それで35歳ぐらいから自分で攻めについて悩んでいたんですが、50歳前ぐらいだったでしょうか、松本敏夫先生(故人)にある 教えをいただいて、それから変わったんです。
阪急百貨店の道場に稽古に行った時に、 松本先生がいらっしゃって、西先生(善延 範士九段)、長井先生 (長正・故人)と私が先生に呼ばれたんです。
そして「構えてみろ」といわれて構えたら、その剣先を松本先生が手で払うようにさわって、「西、おまえはまだできてない。長井、おまえもだめだ」と言う。私はもちろん問題にならないです。そして、「これは剣道の極意だから人にはしゃべるなよ」と冗談も交えて教えて下さったことがあるんです。
一刀流に「浮木(流木)」という教えが ありますが、それと同じことなんです。水に浮く丸太を棒で突くと、突かれた一方は 沈むけれどくるりと回って反対の側が浮き上がりますね。それと同じように、正中線を攻めて、相手に剣先を押さえられたらパッとはずして正中線に戻る。それが攻めにつながる構えの基本だ、それができていなければ本当の攻めにはつながらない、という教えでした。以来25年以上、それを心がけています。
剣道では打てる機会を見出す、作り出す、引き出すという努力が必要です。その努力は何かというと、攻めなんですね。攻めといっても剣先の攻めだけでなく、分析すれば身体全体の攻めもあるし、足での攻めもある。それが総合的に一つの攻めになるわけですが、相手がそれに対して脅威や威圧を感じなければ、本当の攻めではなく形だけのことだと思うんです。
相手が威圧を感じ、たまらなくなって打って出てくる。そこをとらえる。そういう、驚懼疑惑というような気持ちを持たせるような攻め合いをする中に、打突の機会が出てくると思うんですよ。僕はそういう考えでやっています。
しかし相手が十人いれば十人とも感じ方、応じ方が違ってきます。相手がこういうふうに出てくるんだなという判断を、そのつどしていかなければなりません。そのためには剣先で探って相手の出方というか
考え方を探ることが必要です。魚釣りで竿に響くような感じでしょうか。そういうところまで神経を集中しなければなりません。その時に松本先生の教えのような構えが必要になってくるんですね。
若い方々は打ち急いで、充分攻め合ったなかでの相手の体勢の崩れとか、相手の出ばなまで充分に待ち切れないで、自分の方から先に打って行くことが多いですね。打った、当てた、旗が上がったというようなことを剣道の醍醐味だと考えている人は、剣道の寿命が短いと思うんですよ。僕など75歳になって剣道が楽しめるのは、剣先での攻め合いの中で相手の心を読むというようなところがあるからだと思います。
今は和歌山県の武道館で週3回、それか休日には(大阪府) 堺市の刑務所で西先生と奥園 (國義) 先生、それと今回も出場した下村(清)先生らが中心になってやっておられる「日曜会」の稽古に行き、週4回の稽古を欠かさないようしています。
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長正館の長井長正先生は文中のエピソードのあと、一刀流の必要性を感じ、小野十生先に一刀流を学ばれるようになりました。秋山先生もそのあと、定期的に長正館に稽古に来られ一刀流の稽古をされてました。
(記事引責:長正館 粕井 誠) |
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長正館の昔の資料より
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(撮影は長井長正・撮影年月日不明)
前列左から、小城満睦(おぎまんぼく)先生、小野十生先生、
小川忠太郎先生、後列が秋山英武先生。
「この時、秋山先生は運転手で、長井先生が案内役やったんや」と、井上勝由先生が言われてました。(長正館 粕井) |
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