長正館は、笹森順造十六代宗家から、昭和47年(1972年)3月に認可を受け、現在、小野派一刀流宗家道場禮楽堂大阪支部道場として活動しています |
|
|
|
「長正館における古伝の一刀流再現の経緯」
令和6年(2024年)3月現在、長正館では古い一刀流(以後、古伝と呼ぶ)の、大太刀(折身の五点含む)、切落五本、三重(さんじゅう)、九太刀、小太刀、合小太刀、新真之五点、払捨刀、真之五点(真剣のみ)について、ほぼ復元作業を終わっている。
|
※補足
大太刀、切落五本、三重、小太刀、相小太刀の復元は津軽文書(つがるもんじょ)の剣術遣方覚書の現代訳を基本とし、津軽文書に記載が無く不明な箇所のみ一刀流分派の古文献を参考とした。九太刀、新真之五点、払捨刀、真之五点(真剣のみ)の復元は小野家文書(おのけもんじょ)の現代訳を基本とした。いずれも長正館としての解釈であり、今後稽古を続ける中で解釈の変更、それにともなう動作の変更が発生するものと考えている。 |
|
ただし小野家文書に記される草之五点と真之五点および十二点については、復元でなく解読までに留めた。理由は、一刀斎あるいは小野次郎右衛門忠明(初代)に編まれたとされる真之五点と草之五点は、技の仕様を1つに特定しない(=仕様が無数にある)という顕著な特徴が読み取れ、他の一連の技とは教習方法が全く異なると推測できるためである。また十二点は大太刀と紐づけられた技がある反面、半数以上の技はポイントのみが簡易に記されるだけで、打方と仕方の仕様は記されておらず、技の仕様を1つに特定できないためである。
小野家文書の中で三重は「一刀斎の時分は表にして」とあり、技の仕様は記されていない(津軽文書の剣術遣方覚書に技の仕様の記載あり)。九太刀は「戦場の致やう也、具足勝負也」と記されている。よって当時の時代背景から、三重と九太刀は甲冑剣術の刀法であることが読み取れた。また一刀斎時代の三重の「しないて」の動作が、小野家の「数ある切落し」の動作に変遷したとの国際武道大による学説は、大いに頷けるものがあり、注目に値すると考える。
切落しについて、小野家文書には「具体的な動作(=体の使い方)」が記されている。小野家文書の中で、切落しを技の仕様として最初に確認できるのは真之五点の真剣(7本)の項である。また中西忠太子啓(3代目)の口伝を忠兵衛子正(4代目)が書き記したとされる「剣道秘書」にも「切落しの動作」が述べられている。
小野家文書には「下より生じ替わるものなり」、「向こう下がりにならざるように」、「車の輪を回すに、合手の方より手前に回す心」、「太刀に合う時に、我が方に取るところ」、「片身になれば当たらぬ如く」、「我が面を囲うものなり」、「響きを受けて左の肩...分身すること肝要なり」とある。一方、剣道秘書には「敵に向いて対するにあらず、一重に見るに時」「腰体一致して一重身に食い違えながら切落すなり」とある。
これらの文言の比較から、小野家と中西家の切落しには高い類似性が読み取れることがわかった。この2つの文献をベースに、長正館で古伝の切落しを実際に復元してみて、三重の「しないて」から切落しへの変遷の必然性(=国際武道大による学説)と、小野家で教習されていた一重身を使う動作が中西家にそのまま継承されたことを確認できたことと共に、大太刀が整えられた江戸前期と幕末期(〜明治期)との相関性が改めて確認できたのである。これは「切落し」の歴史を知るうえで極めて重要でかつ有益なものと言える。
長正館における古伝の一刀流を復元した経緯について触れておく。それは昭和50年(1975年)頃、長井長正先生が、師の吉田誠宏先生から聞いた話に始まる。
長井長正先生の師である吉田誠宏先生は明治23年、旧高松松平藩の真道一念流剣術の宗家に生まれた六代目である。幼少より剣術と剣道を修業し、大日本武徳会武道専門学校に進み、内藤高治(北辰一刀流・剣道範士)に厳しく指導を受けられた。
吉田誠宏先生は卒業後、大阪税関師範を始め大阪府警など各所で剣道指導を務めたが、段位や称号にはまったく興味が無く、打ち合って勝ちとする剣道自体に総じて否定的であった。吉田誠宏先生の求めるものは、あくまでも心と気を重んじる「真剣勝負の気位」であった。長井長正先生には「気位を忘れるな、拍子で勝つな、剣道は当てっこでは無いぞ」と繰り返し言われていたらしい。
(吉田誠宏先生は小野派一刀流長正館の顧問でもあった)
吉田誠宏先生曰く「お前(長井長正)の遣う一刀流の形は、わし(吉田誠宏)が若い頃に見た一刀流の形とは違うな」と。古い一刀流の構えは、やや低い半身であり、いかにも日本刀で斬りあう刀法を思わせるものであった。攻防一致の構えであり、気位が高く、形稽古でありながら凄まじい気迫を感じ取ったと。それは真道一念流剣術六代目として感じた違和感でもあったのだろう。
長井長正先生も最初は聞き流していたらしい。しかし一刀流の稽古を続けていく上で徐々に疑問も生まれ始めた。洗練された現在の一刀流の形も確かに良いものだ。しかし、今の一刀流の技の中には真剣の理合として疑問が残るものもある。それに自分の表芸としている剣道自体が、昨今はスポーツ化してきたとの懸念もあった。吉田誠宏先生の言われる明治以前の一刀流はどのような形であったのだろう。
古い一刀流も研究しておかなければ、吉田誠宏先生の言われた「真剣勝負の気位」はわからないのでは無いか。いつしかそういう疑問に突き当たってしまったのだ。昭和54年(1979年)に吉田誠宏先生が他界された後、何の手掛かりも掴めないまま、その疑問と迷いをずっと心に秘めておられたらしい。
そして平成2年(1990年)、長井長正先生が他界される年、自ら井上勝由先生に、「これは吉田誠宏先生からいただいた課題だぞ、古伝の一刀流の形がどのようなものであったのか、何とか調べて長正館で取り組んで欲しい」と頼まれたのだ。
幸いな事に、これまで曖昧模糊とされていた小野家の刀法、そして大太刀50本が初めて確立された当時(1650〜1700年頃)の遣い方について、平成19年(2007年)以降、国際武道大学により学術調査が行われ、「武道文化の展開−流派剣術から撃剣、近代剣道へ」という題目で相次ぎ公に論文発表された。この複数回に及ぶ論文で解明された津軽家文書と小野家文書を読んでみると、なるほどと納得の出来る部分も多い。まず構えについて、現行の一刀流のものと、代々の小野次郎右衛門が繰り返し書き記したものとでは異なっている。
さあ、これはどのような事なんだろう?今の形との違いは何だろうか?そしてその古い形から、吉田誠宏先生の言われた精神の修行、真剣勝負の気位は再現できるのだろうか?・・が取っ掛かりであった。
当初、古伝へのアプローチは井上勝由先生の監修の下で始まり、その後、粕井誠現館長を中心に小野家文書、津軽家文書等の文献から古伝の一刀流の研究が行われた。令和3年(2021年)、井上勝由先生が他界された後も、長正館では引き続き今に至るまで、試行錯誤を重ねながら古伝の研究と復刻再現が行われている。 |
|