館長覚書「古伝の一刀流再現及び“切り落としに”ついて」

 
 
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長正館は、笹森順造16代宗家から、昭和47年(1972年)3月に認可を受け、小野派一刀流宗家道場禮楽堂大阪支部道場として活動しています。また吉田誠宏先生、長井長正先生の意志を継ぎ、古伝の一刀流の研究と研鑽も続けています。
 
  「長正館における古伝の一刀流再現の経緯」

長正館では基本教材として「一刀流極意(禮楽堂、笹森順三著)」を使用しており、第7章には小野家文書(代々の次郎右衛門の割目録集)の忠常(2代)の項が掲載されている。忠常(2代)は真之五点、草之五点、新真之五点、十二点、九太刀などの名称と一筆書きで仕様を記している。長正館では忠常(2代)の記した内容を復刻することとした。但し仕様の復刻には忠常(2代)の項のみの内容では極めて簡易で仕様推定が困難な為、小野家文書で詳細に解説している忠一(4代)と忠方(5代)の項を引用した。

【国会図書館 小野家一刀流兵法全書(小野家文書)より】

(↑クリックで大きくなります)


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令和7年(2025年)6月現在、長正館では古い一刀流(以後、古伝と呼ぶ)の、大太刀の全組(折身の組を含む)、切落の組、三重(さんじゅう)、九太刀、小太刀、合小太刀、新真之五点、払捨刀、草之五点(忠明)、真之五点(解読できる仕様の内6本)について、ほぼ復元作業を終わっている。また草之五点には折身の組(常之五点)の他2通り(忠明、忠方)=計3通りの使い方が確認できた。

 
 
上左:国会図書館 小野家一刀流兵法全書(一刀正伝無刀流開祖山岡鉄舟先生遺存剣法書)より 
上右:東京国立博物館 剣道秘書(一刀流兵法組数目録遣方弁書口伝、中西忠兵衛子正)より 

なお一刀流の古伝復元は2007年以降、国際武道大学にて先行(一ツ勝の組、折身の組=草之五点(常之五点)、切落の組、三重、他)している。長正館で原文を現代語訳する際に、一部、不可解な箇所や動作もあり、同大の立木幸敏教授の助言も戴きつつ多角的な視点で復元作業を行った。



【復元の引用箇所について】
大太刀、切落五本、三重、小太刀、相小太刀の復元は津軽文書(つがるもんじょ)_剣術組遣方覚書の原文を忠実に現代語訳することを基本とした。現代の感覚での「意訳」は、動作を現代化させる懸念があるので、原文は極力「直訳」したつもりである。津軽文書に動作の記載が無く一部不明な箇所のみ剣道秘書(中西家)あるいは千葉周作遺稿等、一刀流分派の古文献も参考とした。真之五点(解読できる仕様の内6本)、九太刀、草之五点(忠明、忠方)、新真之五点(忠常)、払捨刀の復元は、小野家文書(おのけもんじょ)の原文を忠実に現代語訳することを基本とした。なお草之五点(忠明)と真之五点は現代語訳する者の選択次第で、復元の仕様が無数に存在し、長正館での復元はその内の1つに過ぎない。いずれも長正館としての現代語訳と解釈であり、今後稽古を続ける中で解釈の変更、それに伴う動作の変更が発生するものと考えている。

ただし小野家文書に記される十二点については、復元でなく解読までに留めた。理由として十二点は「第一、表に有之巻返しの一番目の事」のように大太刀と紐づけられた項がある一方、半数以上の項は「第七、...宜しき場にて上段に取り直に打つ。下段奈落の底までも打ち通す心也」のように打方と仕方の具体的な仕様は記されず、技(=組太刀)ではなく、ポイントのみが簡易に記される「12項目の要点(=心得)」であったことが推察できる為である。



【「しないて」からの変遷と「古伝の切落し」の動作について】
小野家文書の中で忠方(5代)は「三重、是を一刀斎の時分は表にして諸人これを遣う」と記し、一刀斎の時代(=大太刀が編まれる以前)は三重を通常の稽古で弟子に教習していたことが読み取れる一方、三重の仕様は記されていない(津軽文書の剣術遣方覚書に技の仕様の記載あり)。九太刀については忠一(4代)が「戦場の致やう也、具足勝負也」と記している。よって当時の時代背景から、三重と九太刀は甲冑剣術の刀法であることがわかる。

津軽文書の三重で多用される「しないて」の文言そのものは、小野家文書では確認できない。一方、この津軽文書の「しないて」に該当する動作について、忠政(9代)から直接教えを受けた柳多元次郎(山岡鉄舟の高弟)の記した史談無刀流の三重では「中段之霞に執って右足を後ろに引きながら、軟らかに緩やかに敵の刀を押さえ...右足を入れて青眼にて攻め」と解説され、正対でなく、一重身の動作であることが記されている。また弘前の北辰堂(=笹森順造の出身道場)の小舘俊雄が(一刀流極意よりも先に)記した日本古来武道芸術集(昭和29年)の三重でも史談無刀流と同様に「逆の平晴眼にて軽く鍔元にて張る、逆の平晴眼にて受け止め」と記される。これらより、「しないて」とは「逆本覚の筋」で柔らかく受ける動作であったことが推定できる。

長正館による「しないて」の復元動作を下記に挙げておく。


「しないての」動画(下記URLをクリック)
https://youtu.be/SsoStUKha1k

そして、この一刀斎時代に編まれた三重の「しないて」の動作が、小野家の「数ある切落し」に変遷したとの国際武道大による学説は、長正館で実際に三重を津軽文書から復刻した際の動作と、忠政(9代)の教えたとされる無刀流の三重での一重身の動作を比較検証した結果、大いに同意できると考える。また同大の論文では津軽文書の「稽古遣方覚」の中に「真剣も切落なり」の記載があることから、真剣(折身之組3本目_「摺上げ」」に切落の動作が使われている(=摺上げも数ある切落の動作の1つである)ことを指摘している。

一方、小野家文書の中で「摺上げ」の「語句そのもの」は確認できないが、切落の説明文の中に摺上げの動作を連想できる箇所が複数確認できることから、この当時は「切落と摺上げは表裏一体」であった、即ち、切落の中で同時に摺上げも教習していたであろうことが推定できる。以上、「しないて」・「切落し」・「摺上げ」は互いに相関しているとの同大による学説は、古伝の復元を進める上で非常に興味深いと考える。

切落しについて、小野家文書で最初に確認できるのは忠常(2代)の項にある真之五点_真剣(7本)である。続いて、忠一(4代)と忠方(5代)によって切落しの「具体的な動作(=体の使い方)」が解説されている。中西忠太子啓(3代)の口伝を忠兵衛子正(4代)が記した「剣道秘書(一刀流兵法組数目録遣方弁書口伝)」にも「構えと切落しの動作」が述べられている。

年不詳、剣道秘書(一刀流兵法組数目録遣方弁書口伝)
中西子正(忠兵衛、4代)


なお伝書には、右一刀流剣術遣方本師子啓先生口伝之意とあり、中西子啓(忠太、3代)の口伝である旨が記されている。

小野家文書には「一陽来復云うも、車の輪の回るが如く」「下より生じ替わるものなり」「向こう下がりにならざるように」「車の輪を回すに、合手の方より手前に回す心」「太刀に合う時に、我が方に取るところ」「片身になれば当たらぬ如く」「我が面を囲うものなり」「響きを受けて左の肩...分身すること肝要なり」とある。一方、中西家の剣道秘書には「敵に向いて対するにあらず、一重に見るに時」、「腰体一致して一重身に食い違えながら切落すなり」とある。このように小野家と中西家の切落しは「正対して頭上に振り上げ真っ直ぐ切り降ろす動作」ではなく、「一重身」で「車輪を向こうから手前に回し、下から上に生ずる(≒下から突き上げるような)」動作であることが記されている。

先に記した「一陽来復」とは、「易学」において冬至を境に太陽の光が戻り、陰(悪い気)が極まって陽(良い気)が再び生じることを意味する言葉である。このように代々の次郎右衛門は切落し動作を易学の言葉を引用して説明している。



なお古伝の切落しについて、国際武道大による復元動作を参考に下記掲載しておく。
(下の写真はクリックで大きくなります)


※「しないて」:
小野派一刀流における組太刀「三重」について、武道・スポーツ科学研究所年報・第20号・平成26年度より引用



※「切落」:
小野家伝書から見る一刀流剣術、武道・スポーツ科学研究所年報・第16号・平成22年度より引用

「片身になれば当たらぬ如く」と次郎右衛門が記しているように、古伝の切落しは「半身」と「斜の太刀筋」を保つことによって成り立つ。古伝では届かぬ間合いでの技は基本的に使わない。実際に八相の筋(=斜の太刀筋)で身体に届く間合いで切り込まれることを前提に、相手の太刀を防ぎつつ同時に勝つ動作として編まれている。

対し、現行の一刀流の稽古では、古伝に比べてほぼ突っ立った正対気味の構えになる。打方は「僅かに斜め(仕方の左頭上から右顎の筋)」に切り付ける。仕方は正眼の構え(やや刃先は左下の角度)のまま頭上に大きく振り上げ(反りがあるのでやや右に振り上げたカタチになる)、僅かな角度を保ったまま振り下ろし打太刀に当たる。当たった瞬間から刃と鎬で「0度」の角度になりつつ(=小卍の作用)、打太刀を凌ぎ落して真っ直ぐ切落し突き込むのである。木刀稽古においては木刀の持つ幅と反りによって成り立つ。

↓現行の切り落とし(現行の切り落としは相手の頭上に届かない間合いで打ち込む)


特に剣道経験者が勘違いする事があるのだが、お互いが「正対」を保ちつつ、「0度」あるいは「0度」に近い角度で切り込めば、片方または双方の僅かなズレ(Deviation=Operational Error)によって、互いの木刀が身体を直撃し合い大ケガに繋がる事態となる。ましてや打方が相手の頭上に届くような間合いで打ち込むことは危険であり現行の切り落としの稽古方法としては間違いである。(例外は「二つの切落し入刃」であり、これは頭上で寸止めを行う)

いずれにしろ現行の切り落としは、正対しての真っ直ぐ気味の打ち込みである以上、安全上の観点から「届かない間合い」での稽古に成らざるを得ない。この間合いの違いが、切落しにおける古伝と現行の大きな違いであることに留意したい。古伝は真剣で深く斬りつける命のやり取りを想定する。失敗は許されないので確実性を重んじる。

切り落としにおいて仕太刀は臨機応変自在に転じて止まらず働く。一様では無く状況に応じて変化するのだ。一陽来復、循環無端の心得と物理的な対応操作で切り落としが成立するのである。

※補足

日本刀での真剣勝負において、お互いが完全に正対し、刃先も切っ先も刀身も完全に真っ直ぐに構え、真っ直ぐに振り上げ、そのまま相手の頭上に届くように真っ直ぐに打ち合い、日本刀の鎬の厚みだけ(過不足なくの鎬の厚みだけですよ)だけで切り落としは可能だ・・・などと言う話を聞いた事があるが、それはあり得ない話である。(実は粕井館長はそれへの疑問が元で一刀流を始めたのである。「んなバカな」と思ったそうな。)

ただし木刀や竹刀ならば刀と違って数センチの幅があるため不可能では無い。木刀稽古では危険なので、当たらない間合いで打つか、打方(技量によって仕方)の手加減が必須となる。竹刀と防具を使えば危険が無いので剣道では得意技とする人もいる。木刀や竹刀なら出来るのだ。だからと言って「真剣でも可能ではないか?」と思わないことだ。本当の切り落としはもっと理論的かつ確実で実戦的な技法である。

長正館での切り落としは仕方の技量に合わせて打方が加減している。仕方が初心者で真っ直ぐにしか振れないのであれば打方は「斜め」に振って当たりやすいように加減する。仕方の技量が上がり、手の内の小卍を使えるなら打方は(ある程度に)真っすぐ振っても良しとする。一番良くないのは、打方仕方双方が「斜め」に振って、見かけだけの切り落としになることで、こうなると力と力のぶつかり合いになり、木刀は割れたり焦げたりする。反りを生かし、かつ手の内の使い方が出来なければ本当の切り落としにはならないのだ。

仮の話だが、もし逆に打方が未熟で仕方が熟練者の場合・・・
打方が真っ直ぐ、本当に頭に当たる間合いで遠慮なく打ってきたら・・・
仕方は古伝の切り落としのように、とっさに半身の本覚となり、頭上で受けつつ摺り流し落とし(=切り落とし)、打方の頭上で寸止めしてあげたら良い。

切落しは卍(=さるまんじ)と小卍の合体で成り立つ。精神論だけで技は成り立たない。これが上で述べた「一陽来復、循環無端の心得と物理的な操作」になる。とっさの場合は古伝で対応する。つまり古伝はより実戦的なのである。

古文書に戻る。津軽文書(つがるもんじょ)と小野家文書(おのけもんじょ)の比較から、小野家と中西家の切落しには高い類似性が読み取れた。この2つの古文献をベースに、長正館で古伝の切落しを実際に復元してみて、三重の「しないて」から切落しへの変遷の必然性(=国際武道大による学説)が理解できた。そして、小野家で教習されていた「一重身を使う動作」が中西家にそのまま継承されたこと、及び、大太刀が整えられた江戸前期と幕末期(〜明治期)との相関性が改めて推定確認できたのである。これは長正館で「切落し」を具体的に継承していく上で、極めて重要でかつ有益なものとなっている。



【古伝復元の経緯】

長正館における古伝の一刀流を復元した経緯について触れておく。それは昭和50年(1975年)頃、長井長正先生が、師の吉田誠宏先生から聞いた話に始まる。

長井長正先生の師である吉田誠宏先生は明治23年、旧高松松平藩の真道一念流剣術の宗家に生まれた六代目である。幼少より剣術と剣道を修業し、大日本武徳会武道専門学校に進み、内藤高治(北辰一刀流・剣道範士)に厳しく指導を受けられた。

吉田誠宏先生は卒業後、大阪税関師範を始め大阪府警など各所で剣道指導を務めたが、段位や称号にはまったく興味が無く、打ち合って勝ちとする剣道自体に総じて否定的であった。吉田誠宏先生の求めるものは、あくまでも心と気を重んじる「真剣勝負の気位」であった。長井長正先生には「気位を忘れるな、拍子で勝つな、剣道は当てっこでは無いぞ」と繰り返し言われていたらしい。


(吉田誠宏先生は小野派一刀流長正館の顧問でもあった)

吉田誠宏先生曰く「お前(長井長正)の遣う一刀流の形は、わし(吉田誠宏)が若い頃に見た一刀流の形とは違うな」と。古い一刀流の構えは、やや低い半身であり、いかにも日本刀で斬りあう刀法を思わせるものであった。攻防一致の構えであり、気位が高く、形稽古でありながら凄まじい気迫を感じ取ったと。それは吉田誠宏先生が真道一念流剣術六代目として感じとった違和感でもあったのだろう。

長井長正先生も最初は聞き流していたらしい。しかし一刀流の稽古を続けていく上で徐々に疑問も生まれ始めた。洗練された現在の一刀流の形も確かに良いものだ。しかし、今の一刀流の技の中には真剣の理合として疑問が残るものもある。それに自分の表芸としている剣道自体が、昨今はスポーツ化してきたとの懸念もあった。吉田誠宏先生の言われる明治以前の一刀流はどのような形であったのだろう。

古い一刀流も研究しておかなければ、吉田誠宏先生の言われた「真剣勝負の気位」はわからないのでは無いか。いつしかそういう疑問に突き当たってしまったのだ。昭和54年(1979年)に吉田誠宏先生が他界された後、何の手掛かりも掴めないまま、その疑問と迷いをずっと心に秘めておられたらしい。

そして平成2年(1990年)、長井長正先生が他界される年、自ら井上勝由先生に、「これは吉田誠宏先生からいただいた課題だぞ、古伝の一刀流の形がどのようなものであったのか、何とか調べて長正館で取り組んで欲しい」と頼まれたのだ。

幸いな事に、これまで曖昧模糊とされていた小野家の刀法、そして大太刀50本が初めて確立された当時(1650〜1700年頃)の遣い方について、平成19年(2007年)以降、国際武道大学により学術調査が行われ、「武道文化の展開−流派剣術から撃剣、近代剣道へ」という題目で相次ぎ公に論文発表された。この複数回に及ぶ論文で解明された津軽家文書と小野家文書を読んでみると、なるほどと納得の出来る部分も多い。まず構えについて、現行の一刀流のものと、代々の小野次郎右衛門が繰り返し書き記したものとでは異なっている。

さあ、これはどのような事なんだろう?今の形との違いは何だろうか?そしてその古い形から、吉田誠宏先生の言われた精神の修行、真剣勝負の気位は再現できるのだろうか?・・が取っ掛かりであった。

当初、古伝へのアプローチは井上勝由先生の監修の下で始まり、その後、粕井誠現館長を中心に小野家文書、津軽家文書等の文献から古伝の一刀流の研究が行われた。令和3年(2021年)、井上勝由先生が他界された後も、長正館では引き続き今に至るまで、試行錯誤を重ねながら古伝の研究と復刻再現が行われている。
 
 
 

小野家文書に記される一刀流「セイガン」の構え(=「本覚」の構え)

 

小野家の切落し(長正館による復刻稽古の動画)
(画面クリックで動画が再生されます)
打ち込む間合いが現行と違います。



【参考文献】

@小野家一刀流兵法全書(一刀正伝無刀流開祖山岡鉄舟先生遺存剣法書)、全巻
  ※小野家文書(代々の次郎右衛門による割目録)を掲載(1987年一般公開)

A「武道文化の展開−流派剣術から撃剣、近代剣道へ」、魚住孝至/立木幸敏
  ※国際武道大学による複数回に渡る論文発表(一刀流関連の全件)
  ※津軽文書(剣術組遣形覚書)と小野家文書を掲載

B伊藤一刀斎影久(花押付き)の直筆による伝書、実方家文書に所収、千葉県文書館

C外他流の関東伝播に関する一研究〜御子神氏を中心として
  江戸時代関東農村における剣術流派の存在形態に関する基礎的研究、数馬広二

D近世後期における剣術修行論に関する一考察
  「たより草」の分析を中心に、明治大学、長尾進

E一刀流兵法組数目録遣方弁書口伝(中西忠兵衛子正)、剣道秘書に掲載

F一刀流兵法目録(忠也派)、鵜殿長快(光田福一・編)

G北辰一刀流兵法、千葉周作遺稿(千葉栄一郎・編)

H北辰一刀流祖遣様聞書、日本武道大系第2巻、兵法一刀流に掲載

I北辰一刀流機運之書、一刀流関係史料(筑波大学)に掲載

J北辰一刀流剣法、内藤伊三郎

K史談無刀流 山岡鉄舟と弟子 元治郎(遺稿集、浅野サタ子著)に掲載





【参考資料1】

小野家一刀流兵法全書(一刀正伝無刀流開祖山岡鉄舟先生遺存剣法書)
 

矩之積(かねのつもり)
我と敵のかね合の損益を云。向身ニなれバ中ひろく成ゆえに中る。片身になれバあたらぬごとく、(中略)丸きものの通らぬ時ハひしゃげバ通る心なり。(4代 忠一)

何ヲスルモ左ノヒザヲ後エヒラク事、秘事也。(5代 忠方)

一刀流ハアカラサマニモムキミ(向身)ニナル事ハナキ也。 又、左ノカタ後エ
ヒカエル事セン一也。 ムキ身ニ少モナル事ナカレ。(5代 忠方)

弟子入之節教方古法
腰のかためをよく、ひとへ身にして、足十字ニふませ、夫より清眼を教る也。切先、打太刀左りの目の通と教る事、古法也。併、夫ニてはリきミ強き仁は、眼にくつたくして却て出来兼る故、打太刀の顔の通りと教る事ハ近来也。(6代 忠喜)

 


【参考資料2】

長正館の内部資料より。

現行の「中段霞」の足を入れ替え、右足を前にした構えが古伝の「清眼」。
  (なお現行の中段霞は古伝では左セイガンと記されることもある)

現行の「下段霞」の足を入れ替え、右足を前にした構えが古伝の「下段」。

現行の「逆本覚」の足を入れ替え、右足を前にした構えが古伝の「本覚」。

特に三重や九太刀など、戦国時代の古い形ほど身を低く構えるよう意識している。そして定寸(全長3尺2寸)の木刀では無く長大太刀(全長3尺8寸)の木刀を使う。

本覚については、現在の構えは正対しているので、どうしても違和感があるが、古伝では右肩を入れた半身の清眼(上の写真の清眼の構えを参照)より、左拳を高く胸の位置に置いた構えとなる。ただし現在の本覚と違い、左手は普通に柄を握る。当然ながら、古伝の本覚の構えは、状況に応じて剣先の向きや高さを変化させる。(当然、すべての構えは状況に応じて変化する)



(五代 忠方「小野家文書」より)

【訳】
八相のカタチは皆本覚なり。(本覚と逆本覚で八をカタチ作る)
セイガンの構えも原型は本覚の構えである。(よって、セイガン≒本覚)

八の字の左側は常の八相。
常の八相は切っ先を高くするのがコツ。
八の字の右側は逆の八相と言う。

【考察】
忠方記述の「セイガンモ、モト本覚ナリ」から、相手と正対し、左拳を臍前に付けたセイガンの構えは素肌剣術になってからの主流の構えで、古くは半身本覚の構えが主流だったと推測される。

八相とは、真っ直ぐの筋でなく、おそらく「斜めの筋と左右対称」の大きな枠組みのことを示しており、小野家文書では時に構えであったり、時に太刀筋や全体のカタチであったりしている。要するに古伝の構えと太刀筋は「半身と八相(順逆の斜の筋)が基本」ということである。つまり「セイガンも本覚もみな八相」であり、一見、八相に見えない「右前脇構え」や「左前脇構え」も八相である・・と考えたら、既存の理解力では難解な代々次郎右衛門の口述も、すっきりと腑に落ちてしまうのである。

当然ながら、小野家文書に記される古伝の切落しは、現在の正対した姿勢で真っ直ぐ大きく振りかぶり振り下ろす切落しとは異なるということをここに強調したい。古伝の切落しは、本覚(≒セイガン)の構えから繰り出す八相の太刀筋(またはその変形版)なのである。

  ※補足
甲冑時代の剣術も江戸時代に変化せざるを得なかった。
戦国時代、江戸初期、中期、後期、そして近世から現代と時代の流れで変化してきた。
太刀から打刀への変化、板の間・竹刀・防具の使用、打突部位の変化など、様々な要因がある。
剣術は「時代によって変化する」のが自然であり「昔の形が正しいわけでは無い」
と言って「昔の形を無視して良いわけでも無い」というのが長正館の立ち位置である。

 
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