「長正館における古伝の一刀流再現の経緯」
令和6年(2024年)3月現在、長正館では古い一刀流(以後、古伝と呼ぶ)の、大太刀、切落五本、十二点、三重、九太刀、小太刀、合小太刀、折身(五点)、新真之五点について、ほぼ復元作業を終わっている。
ただし、草之五点と真之五点については復元でなく解読までに留めた。理由は、一刀斎あるいは小野次郎右衛門忠明(初代)に編まれたとされる真之五点と草之五点は、技の仕様を1つに特定しない(=仕様が無数にある)という顕著な特徴が読み取れ、他の一連の技とは教習方法が全く異なると推測できるためである。
長正館における古伝の一刀流を復元した経緯について触れておく。それは昭和50年(1975年)頃、長井長正先生が、師の吉田誠宏先生から聞いた話に始まる。
長井長正先生の師である吉田誠宏先生は明治23年、旧高松松平藩の真道一念流の師範家に生まれた。幼少より剣道を修業し、大日本武徳会武道専門学校に進み、内藤高治(北辰一刀流・剣道範士)に厳しく指導を受けられた。
吉田誠宏先生は卒業後、大阪税関師範を始め大阪府警など各所で剣道指導を務めたが、段や称号にはまったく興味が無く、打ち合って勝ちとする剣道自体に総じて否定的であった。吉田誠宏先生の求めるものは、あくまでも心と気を重んじる「真剣勝負の気位」であった。長井長正先生には「気位を忘れるな、拍子で勝つな、剣道は当てっこでは無いぞ」と繰り返し言われていたらしい。
(吉田誠宏先生は小野派一刀流長正館の顧問でもあった)
吉田誠宏先生曰く「お前(長井長正)の遣う一刀流の形は、わし(吉田誠宏)が若い頃に見た一刀流の形とは違うな」と。古い一刀流の構えは、やや低い半身であり、いかにも日本刀で斬りあう刀法を思わせるものであった。攻防一致の構えであり、気位が高く、形稽古でありながら凄まじい気迫を感じ取ったと。
長井長正先生も最初は聞き流していたらしい。しかし一刀流の稽古を続けていく上で徐々に疑問も生まれ始めた。洗練された現在の一刀流の形も確かに良いものだ。しかし、今の一刀流の技の中には真剣の理合として疑問が残るものもある。それに自分の表芸としている剣道自体が、昨今はスポーツ化してきたとの懸念もあった。吉田誠宏先生の言われる明治以前の一刀流はどのような形であったのだろう。
古い一刀流も研究しておかなければ、吉田誠宏先生の言われた「真剣勝負の気位」はわからないのでは無いか。いつしかそういう疑問に突き当たってしまったのだ。昭和54年(1979年)に吉田誠宏先生が他界された後、何の手掛かりも掴めないまま、その疑問と迷いをずっと心に秘めておられたらしい。
そして平成2年(1990年)、長井長正先生が他界される年、自ら井上勝由先生に、「これは吉田誠宏先生からいただいた課題だぞ、古伝の一刀流の形がどのようなものであったのか、何とか調べて長正館で取り組んで欲しい」と頼まれたのだ。
幸いな事に、これまで曖昧模糊とされていた小野家の刀法、そして大太刀50本が初めて確立された当時(1650〜1700年頃)の遣い方について、平成19年(2007年)以降、国際武道大学により学術調査が行われ、「武道文化の展開−流派剣術から撃剣、近代剣道へ」という題目で相次ぎ公に論文発表された。この複数回に及ぶ論文で解明された津軽家文書と小野家文書を読んでみると、なるほどと納得の出来る部分も多い。まず構えについて、現行の一刀流のものと、代々の小野次郎右衛門が繰り返し書き記したものとでは異なっている。
さあ、これはどのような事なんだろう?今の形との違いは何だろうか?そしてその古い形から、吉田誠宏先生の言われた精神の修行、真剣勝負の気位は再現できるのだろうか?・・が取っ掛かりであった。
当初、古伝へのアプローチは井上勝由先生の監修の下で始まり、その後、粕井誠現館長を中心に小野家文書、津軽家文書等の文献から古伝の一刀流の研究が行われた。令和3年(2021年)、井上勝由先生が他界された後も、長正館では引き続き今に至るまで、試行錯誤を重ねながら古伝の研究と復刻再現が行われている。 |
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